「e-mail」(作:ホーライ) (1)   目を開ける。 「何を考えているの?」 「別に、何も……。」 目を閉じる。   (どうして、好きになったんだろう。) 目が沁みる。 (……いつからだろう?)   目を開ける。優しい眼差しが見つめている。 「何を想っているの?」 「何も……。きみは?」 微笑みながら、聞く。 「別に。」 首を右に傾けながら、答える彼女。 イタズラッぽく笑っている目。 「それで、いつから?」 「いつからだろう。あるところから、っていうのは難しいよ。気がついたら好きになっていた、かな。」 頷く、彼女。 「そもそも、僕のホームページの感想をメールで送ってくれた時が予想外だった。」 「そう? 感想を書くのは義務でしょう。」 「義務ね。」 強がりで、shyでpureな彼女が笑う。 「感想を書いたので、送ったの。あのホームページに有ったメール用アイコンからね。 私にはとても自然なことだったけれど。」 僕があのホームページを立ち上げてから4ヶ月。   目を閉じる。 優しい笑顔が目に沁みる。 天使が微笑んで、僕を見ている。 彼女の言葉が心に沁みる。   ほんの気紛れから立ち上げたホームページ。 あの頃、僕は全てに飽いていた。 中途半端な仕事。大きすぎる組織。一変した環境にも体と心が拒否反応を示していた。 (ホームページを無料で作ることが出来る? 暇つぶしに、丁度いいや。何をテーマにしようか。ピンボールの起源と歴史、小説と絵画の相似、能の舞台芸術について、音楽とスポーツは両立するか、ビールの歴史、ビートルズ……。まぁ、なんでもいいや。一番、ネタが続きそうなのは、う〜ん、自分か?) 僕は、紙の日記に書くように、その日の出来事を書くことにした。 これなら、何も考える必要は無い。今日の出来事を書く。感情も批判も無しで、事実だけを書いてもいい。 6月の寝苦しい夜だった。まず、自分の生い立ちを書いた。 “ やぁー、こんにちは。今日から日記を書きます。 まず最初に何故、僕の両足が短いのかを書いておこう。 「マイサリ事件」はもう歴史の彼方に消えているよね。覚えているのは30代以上だ。この目まぐるしい社会では、3ヵ月がニュースの賞味期限。 僕が母親に宿って4ヵ月目に、彼女は不眠症になったんだ。始めての赤ん坊で気が張り詰めたんだろうね。 それで医者に言ったのさ、「眠れないので、何か薬を」ってね。 処方された薬が「マイサリ」。今じゃ、売ってない。 何故? 奇形児が生まれるからさ。 そう、それで僕がいるんだ。 これから、どこにでもいる僕の日常を書くことにした。 みんな、暇なら読んでおくれ。 今日の話題は、人事制度と身体障害者について…… ”   ホームページで日記を書き始めて1ヵ月後、メールが届いた。僕が立ち上げたホームページの読者からの「初めて」のメールだった。 「私は製薬会社に勤めています。私の会社が作っていたのが、“マイサリ”です……」 あっ、こんな名前の会社だったけ? それがfirst impression. それから毎日一通のメールが必ず届いた。 どうして? それが、彼女の優しさ? とにかく、必ず、一通は届いた。たとえ彼女が二日酔いでも、だ。 「ギリギリ虫が頭の中を這いずり回っています。ところで、今週のお奨め映画は……」 お酒が飲めない僕に、二日酔いの辛さは想像できなかったが、ギリギリ虫が這いずり回っている感じは分かった。 彼女の言葉が好きだ、それがsecond impression かな? (2)   「私は製薬会社に勤めています。私の会社が作っていたのが、“マイサリ”です。 私が産まれる前の話です。でも、今、私はその会社に勤めています。 会社の仕事でインターネットを検索していたら、偶然、あなたのホームページがヒットしました。 そして、あなたの日記を読みました。 実は、私は薬が専門ではありません。私は英文科を出ています。 だから、どうして私の会社の薬があなたに影響したのか、正直なところ分かりません。 これから勉強します。そして、どうしたらいいのかを考えます。 勉強したら、また、メールを送ります。あっ、お忙しいでしょうから、お返事は結構です。かしこ」 可能な限り、僕は彼女からのメールに返信した。 でも、この最初のメールにだけは困った。「どうしたらいいのかを考える」? どうするつもりなんだろう? 僕自身はどうして欲しいのか、さっぱり分からなかった。   僕のメール。 「メールをどうもありがとう。そうですか、“マイサリ”の会社にお勤めですか。 僕のために“どうしたらいいのか”を考えて頂けるとのこと。 僕には“どうしたらいいのか”という選択肢が有るようには思えませんが…… でも、お心づかい、ありがとうございます。 また、日記の感想をお待ちしています。」   日記。 “ 今日、メールを貰った。この日記の読者らしい。なんだか、僕の生い立ちと関係がありそう? 勉強したら、またメールをください。待っています。 そして、いつも、この日記を読んで頂いている皆様、メールをありがとう。全部、目を通しているよ。 ところで、今日の健康診断で、面白いことが有った。 心電図の技師のお姉さんが、僕の足首のところまで電極を苦労して引張りあげていたときだ。 (僕の“足首”はみんなより、ずっと上にあるんでね。) そのお姉さんが、感嘆詞とともにこう言った。 「あなた、お酒が飲めないでしょう?!」 「どうして、分かるんです? 心電図が真面目だから?」 「ハハハッ、ほら、腕が真っ赤よ。」 採血のためにアルコール綿で腕を消毒したが、その跡が真っ赤になっていた。 僕は動く“アルコール検知管”だ。君は? ひょっとして動く“アルコール分解酵素”かい? ここで、クイズだ…… ” 僕のところには、彼女のメールがただ一通届いているだけだったが、指が「皆様」と打ってしまう。 彼女のメール。 「こんにちは。 “マイサリ”は、本当は不良品だったようです。 あの薬はラセミ体だったとのことです。ラセミ体というのは……」 2通目のメールが次の日に届いていた。勉強家なんだ、彼女は。   彼女のメール。 「ラセミ体というのは、右手の化合物と左手の化合物が混ざっているものを言うそうです。 本当は、同僚に聞いたので、このへんのことは良くわからないの。 とにかくラセミ体は同じ化合物でも、右手と左手のように重ねあわせても、全く重ならないものを言うのだそうです。 “マイサリ”は右手と左手があったけれど、そのうち、「左手の“マイサリ”」だけが、「問題有り」だったそうです。 でも、あの当時は、まだ科学が発達していなくて、それが分からなかったの。 もし、右手の“マイサリ”だけを取出すことができ、あなたのお母さんがその右手のほうだけを飲んでいたら、良かったのにね。 今では、右手の“マイサリ”だけを作ることも出来るそうです。 また、メールを出します。昨日の日記に書いていたクイズの答えは“カサブランカ”。かしこ。」   ふ〜ん、映画が好きなんだ。 「夕べはどこにいたの?」 「そんな昔のことは忘れた。」 「今夜は何をしているの?」 「そんな先のことは分からない。」   僕のメール。 「“マイサリ”のこと、ありがとう。薬に右手と左手があるなんて知らなかったな。本当は、どんなものなのか想像できないんだけどね。 映画が好きなのですか?どんな映画が好きなの?今度は映画のことも教えてください。では。」   日記。 “ 夕べは、蒸し暑かったね。みんな、眠れたかい? そう、OK。僕も大丈夫、いつもの通り爆睡さ。 クイズの答えを送ってくれた皆様、どうもありがとう。 正解は「カサブランカ」だ。正解の人には、プレゼントとして、“映画で覚える英語”サイトのURLを送るね。 ところで、薬にも右手と左手が有るなんて、知っていた? 僕はもちろん知らなかった。 どうやら、僕の足が短いのは、「左手の“マイサリ”」のせいだったらしい。 僕はてっきり、意思の弱いおふくろのせいだと思っていたよ…… ”   彼女のメール。 「昨日の日記に、抗議します!! あなたの体は、お母さんのせいではありません。お母さんは、どこも悪くない。 あの当時は、妊娠中に薬を飲むと障害児が産まれるなんてことは、誰も知らなかったのよ。 だから、あなたが産まれる瞬間まで、あなたがどんな様子で産まれてくるのか、お母さんも知らなかったはず。お医者さんにだって。 「意思が弱い」こともないと思う。誰だって、苦しいときには、薬を頼ると思います。 絶対に、あなたのお母さんは、悪くない!!……悪いのは私の勤めている会社かもしれません。調べてみます。 映画は好き。最近はビデオで見ています。なかなか、映画館に行く時間がないのが寂しい……。かしこ」   僕は、ずっとおふくろを怨んでいた。 おふくろさえ、あの時、薬を飲まなければ僕は別の人生を歩いていたはず。 製薬会社を怨んだことは無かった。 調べる?  一体、何を? 調べても、僕の体がどうにかなるものでもない。   僕のメール。 「おふくろは、僕のおふくろです。僕が30年以上どう思ってたか、あなたには理解できないのでは? それに、今更、“マイサリ”のことを調べても、どうなるものでもありません。あなたの貴重な時間を無駄使いするだけだと思います。 大丈夫、僕はあなたの会社のことなど、どうも思っていませんので。 ただ、あの時、おふくろが薬を飲むことをちょっと我慢してくれていたら、と思っているだけです。 お心づかいは、大変ありがたいですが、そこまでやって頂かなくても結構です。では。」   日記。 “ 親の恩は、山よりも高く、海よりも深いってね、昔の人は言ったものです。 でも親が自分の苦痛から解放されるために、子供に不幸を与えてもいいのかね。 さて、今日の新聞から「車椅子」用の高速バスが登場! ――遅い! 遅いよ。公共の乗り物が…… ” もちろん、彼女からは抗議のメールが届いた。プリントアウトすると、A4で2枚だった。 返信はどうしたものか。きっと、どう書いても理解してもらえないんだろう。 車椅子の修理に出かけよう。僕の夏は例年通り、ロードレースの練習で終わるだろう。 本格的なレースの前にスポークの修理をしておこう。 滲む汗を拭きながら、街の歩道を車椅子で身体障害者スポーツセンターに向かう。   夏は僕が嫌いな季節だ。 つづく  【注意】 これは完全にフィクションである。映画名、音楽名、俳優名、小説名は実際に存在するものだが、「マイサリ」は実存しない。 「マイサリ」と類似する名称があったとしても、偶然である。 ただし、「サリドマイド」という薬により、奇形児が産まれた薬害事件は実際に有った。 二度と同じ悲劇が起こらないように。二度と繰り返しませんように。  (3) 夏になると、僕は泳ぎたくなる。でも、夏の海とプールは僕には縁のない話しだった。 エネルギーを発散するために、僕はロードレースを選んだ。 北海道で毎年開催される「サロマ湖車椅子100kmロードレース」が目標だ。 去年は50Kmに出場した。そのレースでは、左手の故障と手のひらの「まめ」に泣かされた。 腕力をつける、これが今季の課題だ。 特に左手。 左手の親指と人差し指に力が入らない。昔、手首を切った後遺症だった。 手術で腱を繋いだが、今だにつっぱり、二本の指が思うように動かない。 キーボードを叩きすぎるとすぐに指が動かなくなる。   今年から、ベンチプレスを増強した。週一のコース練習でも、上半身をバランス良く体重移動に使うよう心がけた。 流れる汗だけが、僕の自己満足だ。誰の助けも要らないし、誰かに助けられるのが嫌いだ。 レース仲間とも、滅多に口をきかない。僕は心を閉ざす。おあいそ笑いが煩わしい。   日記。 “ 今日は車椅子で40Kmを走破したよ。 今年の夏は、軽井沢で80Kmに挑戦するんだ。 そして、秋には北海道で100Kmだ。サロマ湖の周りを100Km! これが僕の夢。 いつもは、東京の西にある障害者スポーツセンターで練習している。最高に美人のコーチがいるんだ。ふふん♪ 昔の映画でランナーが海岸を走る場面が有ったね。イギリスの映画でさ。題名は忘れたけれど、音楽が良かった。 コーチは、あの音楽が好きでね、いつもプレーヤーから流しながら練習を見ているんだ。 最高だよ。 ”   彼女からのメール。 「“マイサリ”の影響は、特に妊娠3−5ヵ月で大きく出るというデータがありました。 しかも、それは、販売前から分かっていたようです。 企業秘密かも知れません。マウスのデータですから、すぐに人間にも影響するとは当時は考えなかったのかも知れません。 昨日の映画のタイトルは「炎のランナー」。私は「長距離ランナーの孤独」という小説も好きです。 かしこ 」   企業秘密? マウスのデータ? どうして、そこまでやってくれるのだろう?   僕からのメール。 「いつもメールをありがとう。でも、どうして、そんなに一生懸命調べてくれるの? それに、企業秘密だって?! 大丈夫かい? 繰り返し言うけれどね、僕は本当に、本当に今ではなんとも思ってないんだ、この体のことは。 おふくろのことを悪く言うのは眠れぬ夜だけだよ。だから、そんなに無理をしなくてもいい。 それよりも、きみの好きな映画について、もっと書いて送ってください。では、また。 PS.僕も長距離ランナーの孤独は好きです。」   日記。 “ 昨日の映画のタイトルが判明! 「炎のランナー」だ。う〜ん、そうだったね。懐かしいよ。時計の鐘が鳴り終る前に中庭を1周する場面。 沢山の人から、タイトルを教えてくれるメールを貰った。ありがとう! 暑くなってきたね。僕は水の中には入れないけれど、みんなは、楽しんでいるかい? 海辺でのデートはどうだい? うまくいったかな? 湘南は今日も渋滞だったね。サザン オール スターズが誘う甘い世界に二人で行けたかい? さー、今日の出来事だ。 アスファルトも溶ける歩道は、車椅子を利用している僕らには「熱波」の源だ。 みんなより、熱波の源に近いところを移動しているんだぞ。 お陰で僕は、今日もイオン補給飲料を飲み続けだ。 手のひらも汗ばんで、火傷しそうだよ。ところで僕がロードレースを選んだのは……”   その日の日記を書くと、僕は「長距離走者の孤独」を読み、炎のランナーのテーマ曲を聴きながら眠りについた。 一人でも寝苦しい暑い夜だった。朝方まで、寝返りばかりをうって眠れなかった。 もし、あの製薬会社がマウスのデータを秘密にしていなかったら、僕の足は普通だったのだろうか? もし、おふくろが薬を飲まなかったら、今ごろは恋人と海の見えるホテルの部屋で星空を見ていたのだろうか? 波音が耳元に響いてくる。一人で朝を迎えるのが怖い。 一生誰にも愛されないのかも、と思うと泣き出したくなる。   誰も僕を好きにはなってくれない。僕は誰も好きになんかなれない。   (4)   彼女からのメール。 「マウスで障害児が産まれることは、繰り返し実験で確かめられたようです。だから、会社は“確信犯”だと思います。 このデータを公にすれば、きっともっと多くの賠償金が貰えるのではないでしょうか? 私がこのデータをインターネットで公開するというのは、どうでしょう? あっ、これは聞かなかったことにしてもらっても構いません。 あなたをこんなことに巻込むのは良くないですね。 私の好きな俳優はロビン・ウイリアムス。好きな音楽はエンヤ。 好きな食べ物はアイス。乙女座のA型よ。 頑張り屋のあなたなら、水泳もできるのでは? 私は泳げないけれど、応援ならできます。 素敵なコーチにはなれそうもないけれどね。   かしこ」   僕からのメール。 「メール、読みました。マウスの実験の件、驚きました。でも、驚いただけです。 インターネットに公開するのはいいのですが、もし、きみが秘密を漏らしたことが、会社にばれたらまずいでしょう? 賠償金も、僕はそんなに欲しくありません。 賠償金が増えたところで、足は治らない、ね? そうでしょ? それよりも、きみが困ったことになるほうが心配です。 だから、もし、僕のことを考えてのことだったら、結構です。何度も言うけれどね。 そんなことをやるより、代わりに、どうぞ困っている車椅子の人がいたら声をかけてやってください。では、また。 PS. 水泳は無理です。僕の体にはそんな機能がありません。」   日記。 「僕はいつも赤いヘルメットをかぶって練習してる。 最近は、軽くて丈夫な素材で出来た長距離レース用車椅子が売っているんだ。 それでもってさ、その車椅子が目茶苦茶高いんだよ。こらー! 障害者用の車椅子なんだからもっと安くしろ!! いくらレース用の特別仕様だと言っても、ちょっと高すぎないか?! でも、まぁ、しょうがないかな。こんな車椅子を作っている人も全国でたった一人。 需要と供給のバランスから言っても高くなるよね。贅沢の極みだ。 今日の筋肉トレーニングの練習ではベンチプレス50kgを30回。ヒィーヒィーだよ。 コーチはいつもの青いTシャツに、ピンクのジョギングパンツ。 いつものように最高だ! 暑いね。トレーニング室はサウナのようだった。近くの大学のプールでは水泳部が合宿をやっているようだった。 駅の三角屋根が入道雲を背にしてた。夏、真っ盛り……。」 彼女からのメール。 「薬の承認申請には、現在では、催奇形成試験(さいきけいせいしけん と読むのだそうです)のデータを出すことになっているようです。 これは、妊娠中に薬を飲んだ時に奇形児が産まれるかどうかの試験です。 “マイサリ”の頃はこの試験データの提出は義務づけられていなかったとのことです。 ただ、製薬会社では自主的に、この試験をやっていたようね。 その後、いろんな薬で、“マイサリ”のような薬害が有って、このデータの提出が義務づけられたそうです。 どうして、初めから、こうなっていなかったのかしら。 試験データを公開することは、ただ今、考え中。 “マイサリ”のために、あなたのような方が日本に5000人はいらっしゃるのです。 会社では、とにかくこの患者さんたちが、成人するまで毎年賠償金を支払っていました。 でも、皆さん、今は成人になられて、賠償金が支払われていないのでしょ? もし、賠償金が貰えたら、長距離レース用の車椅子も買えるのではないかしら? きっと、これも余計なお世話ね。 でも、とにかく、こうしてこの会社でこのまま働いて確信犯の片棒をかつぐのはイヤ。 インターネットで、障害者の方のスポーツやパラリンピックに関連するサイトを見つけました。 下記がそのURLです。あなたと同じような方が、水泳の日本代表として頑張っています。ご参考までに。 http://web.archive.org/web/20020105224854/http://www.jsad.or.jp/ 今週のお薦めの映画は、「いまを生きる」。私の好きなロビン・ウイリアムスが主演です。 彼はいつも優しい声で話すの。彼の笑顔が好き。     かしこ」   日記。 「僕は水泳選手として、日本代表選手になりたいんじゃないんだ。 みんな、誤解しないでくれ。 ただ平凡に、海に行って砂浜を恋人と歩きたいんだ、手を繋いでね。 ただ普通に、プールサイドでアイスクリームを食べたいだけさ、水着でね。 車椅子ではトイレに行けないプールが多い。 そもそも、デートの最中にトイレに行くにも、誰の手を借りればいい? 恋人に? 出来る訳が無い。 トイレで誰が僕を支えてくれる? 恋人が? もう、いい。明日はいつもの通り、障害者スポーツセンターで筋肉トレーニングだ。 夏はサザンオールスターズ、冬はユーミン。 スキーもいいよね。二人でペンションに行ってね。 車椅子が使えるペンションが全国に一体、何軒あると思う? みんなは、知っている?」   彼女からのメール。 「あなたの笑顔は素敵でした。ロビン・ウイリアムスに負けないくらい。 赤いヘルメット、お似合いでしたよ。コーチもあなたがおっしゃるようにとても素敵な方ね。 (私には勝てそうもないかも。^.^) あなたの上半身は筋肉の固まりで、とても逞しく思えた。 汗だくのあなたを見て、今度はタオルを持参しなくちゃ、と思いました。 車椅子かっこいいね! あんなにスポーティなものだとは知りませんでした。 いつ軽井沢で80Kmのレースがあるんですか? 絶対に、応援に行きます!! プールでも、海にでも行きませんか? ……私も自信がないけれど。      かしこ」 (5) 「あの時どうして、僕が練習している場所が分かったの? メールでは教えてくれなかったけれど。」 コーラを飲みながら、彼女の目を見つめる。 「日記。あそこに書かれていた風景を頼りにしたの。障害者スポーツセンターって都内にいくつもないのよ。」 頷く。微笑みながらミルクティーを飲むと彼女は、窓の外を眺める。 目を閉じる。 目が沁みる。エンヤの音楽が一日中、頭の中に流れていた暑い夏を思い出す。 目を開ける。   気がつくと頬杖をついて、やわらかな髪の毛を耳にかけ僕を優しく見つめている。 どうして、そんなに優しい表情が出来るの? ……今まで逢った誰よりも、きみは僕の心を捉える美しさを持っている。 心も、顔もelegantだ。 「海に誘ってくれたね。びっくりしたよ。」 「そう? 海は好きなの。 車椅子の人とは行ったことがなかった。私は泳げないし、体力にも自信はなかった。 でも、どうにかなるわって思ったの。あんまり考えて行動していないのよ、私って。」 「そうかな。」 「でも、夢が大切。夢が明日を作るの。夢と希望が私たちに明日を作らせる。そう思う。だから、私は夢を持っていたいし、あなたにも持っていてほしいの。 そう思ってさ、海に誘った。」 「ありがとう。」 僕は地上に出てきたばかりの蝉。明日を信じて、今をいきる。 (6) 僕のメール。 「どうして僕の練習場所が分かったの? 声をかけてくれれば良かったのに。 僕の練習風景がそんなに良かった? マネージャーを募集中だから、参加してみない? 海は一度、女性と行ったことがある。もちろん、泳がなかったけれどね。 彼女の自動車に乗せてもらった。 でも、トイレに行けなくて苦しんだよ。いつも人と外出するときは、水分を取らないようにしている。 けれど、あの日は暑かったので、つい飲みすぎたんだ。その彼女も良くやってくれたんだ。それまではね。 だけど、どうしてもトイレには付き合えないってさ。おかげで、僕は膀胱炎にまでなっちまった。 彼女は練習にもよく来てくれた。レースの応援にもね。 でも、結局、親の反対やらがあって、それっきりさ。 だから、そんなに簡単に、誘わないでね。慰めならいらないしね。 きみはエンヤが好きなんだ。僕は知らないけれど、今度、レンタルショップに行ってみるよ。では、また。」   僕の日記。 “ 暑いね。 今日なんか、暑すぎて蝉が道路でのた打ち回っていたよ。 38度だ。信じられるかい? 扇風機をかけても熱風が来るだけだ。 僕が50Km走破すると5Kgは体重が減るんだ。みんな汗となって流れていく。 練習中に顔がざらざらしてくるんだ。 塩が出ているんだね。僕の顔は死海か? 軽井沢でのレースが決定! 9月10日だ。 鉄腕レースじゃないんだからさ、今日のような過酷な暑い日にならないでおくれー!! ”   彼女のメール。 「“マイサリ”の件を、上司に言ってみました。正攻法ではだめね。 既に患者団体とは示談が10年以上前に済んでいる。これ以上は、会社の責任ではない、と澄ました顔で言っていました。 では、このデータを公開してもいいのですか? と聞いたらウロタエテいました。データはもう自宅に持ちかえってます。 前にも言ったとおり、無料でホームページを開設できるサービスを利用して、データを公開しようかと思います。 なんのために、公開するの? ですか?  私が出来ることって、それくらいだから。 お給料を貰っている会社を売るようだけど。でもいいの。きっと、このデータを公開したところで何も変わらない。 私がクビになるくらいかな。 エンヤは、心を穏やかにしてくれるので、大好き。アイルランドの歌手で、お父さんはパブを経営しているのよ。       かしこ」   どうやら、彼女は僕の忠告なんて聞く耳を持ってないようだ。 エンヤを借りてくる。不思議なサウンド。透明なボーカル。僕の体と心を包み込む音楽。力強く、静かに歌うエンヤ。 それは、彼女のメールに書かれた言葉だったのかも知れない。 端整な顔をしたエンヤ。 目を開ける。 「エンヤって、端整でエレガントな顔をしているよね。」 「うん、私、歌も好きだけれど、彼女の顔も好きなの。」 「きみのほうが、エンヤよりもずっと綺麗でエレガントさ。 いつも、僕はきみの顔を見てボーとしているので、大切なことを聞き逃しているんだ。」 「美化しすぎ。」 「これでも、控え目に言っているんだけれど。」 微笑む彼女の美しさは、僕に森の朝を思い出させ、暖かな春を思い出させ、夢を忘れてはいけないことを教えてくれる。 目を閉じる。 炎天下、車椅子でスポーツセンターに向かう。 筋肉トレーニングのお陰で、1回のストロークで移動距離が長くなってきた。長距離は体力勝負だ。 これからは、持久力をつけるために、長距離をできるだけゆっくり時間をかけて走破する練習に変更する。 スポーツセンターの前にある長いスロープの車椅子用歩道橋を渡る。練習なんかより、ここが一番きつい。 やっとの思いで歩道橋を渡り、スポーツセンターに向かう。 日傘が見える。白い日傘の下に、ピンクのポロシャツ。色褪せたGパンに白いスニーカー。笑顔で僕を見ている。 近づくと、日傘をたたみ、走りよってくる。 「こんにちは。暑いですね。あっ、はじめまして、かな。メールでは何度も会っているのに変ですね。」 僕を涼し気に見下ろす。 「こんにちは。良く分かったね、今日が練習日だって。」 「だって、受付のところに練習日が貼ってあるんですもの。」 「そうか。そうだね。」 「タオル持ってきました。それと、麦茶。」 「ありがとう。」 「向こうの日陰のベンチで、練習が終わるまで本でも読みながら待っています。」 「じゃ、練習の後で。」 彼女は木陰に走り、ベンチに座ると白い袋からアイスを出し僕を見た。 イタズラした子供が親に見つかった時のように彼女は笑った。 そして、本を広げるとアイスを食べ始めた。 信じられない思いで僕は彼女を見た。会社をクビになることなんて、なんとも思ってないのだろうか?   1時間半の練習を終わり、スポーツセンターの外に出る。 彼女が出迎えてくれる。 「ホント、あのコーチ、素敵ですね。いくつなんだろう。」 「31歳。僕より5歳下。」 「ちょっと、練習を覗いてみたの。練習の時は、いつもあんなに厳しいんですか?」 「そうだね。だから、このスポーツセンターからパラリンピックに何人も選手が出ているんだ。」 「ふ〜ん。ハイ、タオル。」 「ありがとう。」 薄いブルーのタオルを借りて、顔の汗を拭く。石鹸の香りがする。 「洗濯して返すよ。」 「あら、いいのよ。洗濯は大好きだから。」 クラクションを鳴らしながら、コーチが運転する赤いファイアットが僕たちの隣りを通り過ぎていく。 「チャオ!」 コーチが僕たちに手を振りながら去っていく。 「いいなー、あんなふうに成りたいな。」 彼女が、車を首で追いながらつぶやいた。 「喫茶店にでも行く?」 「あの日影がとっても気持ちいいですよ。あそこで麦茶でも飲みませんか?」 僕と彼女は大きなポプラの木の下で涼を取った。   「これが、動物実験のデータです。これが、障害児が生まれる確率を求めた計算結果。 ね、妊娠初期で“マイサリ”を使うと、ほとんど流産するか、奇形のマウスが産まれているでしょう?」 A4の紙に打出されたそれは、僕には数字と英語の略語の羅列にしか見えなかった。 これが、僕の人生を変えたデータ? 全国の5000人の人間の人生を狂わせたデータ? この数字の羅列は現実味が無い。この数字には、なんの痛みも悲しみも感じない。 ただの数字だ……。 その紙と彼女の顔を何度も見比べると、僕はため息をついた。 彼女の差し出してくれた麦茶を飲む。 「意味が無いよ、こんな数字に。こんな数字を世の中に出したところで、僕の体は変化しない。誰も喜ばないと思う。 きみは、クビになっても困らないの?」 「そうね、……それはまた後で。公開するかどうかは、また後で考えます。 それよりも、このデータをあなたに見せたかったの。」 「どうして?」 「あなたの体は、お母さんのせいでは無いことを言いたかったの。 これは製薬企業の怠慢と社員の馴合い、科学者の思い上がり、ありとあらゆる無責任の産物かもしれない、と思ったの。 私は、それに加担したくなかった。 まぁ、それはどうでもいいの。 とにかく、あなたのお母さんのせいではないことだけでも、分かってほしかったから、持ってきた。」 両手の指を擦り合わせながら、うつむいて話す彼女。 タバコを吸いながら、僕は自分の足を見る。 「私には何もできないわ。どうして“マイサリ”が障害児を作ってしまうのか、本当のところは理解できない。 普段、会社で仕事をしていても、意味の分からない言葉ばかり聞かされて、ほとんどコンプレックスの固まり。 まわりのみんなは、私なんかより、ずっと、とても頭が良く見えるわ。 だけど、私にだって分かることがある。私の勤めている会社の製品のせいで、あなたが車椅子に乗っている。 それは、事実。でしょ?」 「そうかもね。」 蝉が鳴いていた。7年の地中生活を終え、地上に出た最後の夏。僕の7年間と同じだ。 「私に何ができるか、それを考えたの。私にできること……私にだってできることは有るはず。 それは、一体、誰のせいであなたが車椅子に乗っているのかを、調べること。 少なくとも、あなたのお母さんのせいでは無いことを証明したかったの。お母さんはお元気?」 「7年前に、癌で死んだ。」 「そうだったの。」 「おふくろは、ずっと僕に謝っていたよ。私があの時、薬さえ飲まなければあんたの足は普通だったのに、ってね。」 「違うわ!!」 彼女は、麦茶の入ったコップを落として立ち上がり、僕を見下ろした。 (6) 「違うわ!!」 彼女は、麦茶の入ったコップを落として立ち上がり、僕を見下ろした。 「それは絶対に違う! あなたのお母さんのせいなんかじゃない!! あなたのお母さんは、ただ眠れなくて、お医者さんから出された薬を信じて飲んだだけ! 誰だって、苦しい時には薬に頼るし、まさか、薬でこんなことになるなんて誰も思わないわよ!!」 彼女の目から涙が溢れていた。 白い日傘が僕の膝に飛んできた。紙コップを握り締めて僕を見下ろす彼女。蝉が鳴いている。僕の地中の7年間。 死んだおふくろを許せぬまま過ごした7年間。いつも誰かを怨むことで、自分を慰め、消耗しつづけた7年間。 「あなたにお母さんの気持ちなんて分かりっこないのよ! どんなにお母さんが自分を責めて、苦しんだことか分からないの? どんな母親だって、自分の子供を苦しめるために産むんじゃないのよ。 幸福な人生を夢みて、産まれてくる子供を待ち望んでいたはず……」 僕は、彼女から借りたタオルを差し出した。 彼女はタオルを受け取ると顔に押し当て、ベンチに座り、顔を埋めた。 日差しが、傾いてきた。僕は麦茶を飲んだ。 「おふくろが、どんな思いで薬を飲んだのか分かる。あの人はもともと不眠症気味だった。 僕を産んだ後はますます、その不眠症が進んだんだ。カウンセリングなんて言葉がなかった時代に、おふくろは苦しんでいた。 そして、僕に車椅子の動かし方を教え、僕をできるだけ、いろんなところに連れていってくれた。 おやじもね、苦しんでいたとは思う。 そのデータを貸してもらえるかな? ゆっくり見てみたい。」 タオルから顔を上げた彼女は、微笑むと赤い目を僕にむけた。 「汗くさい。あはは、汗くさいわ、このタオル。 いいですよ、データを持っていって。はい。」 数字だけの、とても理解できそうもないデータを受け取り、僕も笑った。 彼女は僕の膝に飛んできた日傘と落とした紙コップを拾い、話しを続けた。 「ごめんなさい。本当にお母さんの気持ちも、おとうさんの気持ちも、あなたの気持ちも知らないのは、私ね。」 「傘まで飛ばして僕のおふくろを弁護したのは、きみが始めてだよ。」 「あははは、どうもすいません。ねぇ、軽井沢のレースに応援に行っても、いいですか?」 「別に、僕の許可なんて必要ない。」 「そうか。あっ、ここのマネージャーを募集しているのは、本当なんですね。受付のところに募集広告が出ていました!」 「うん、地味な仕事なんで、あまりなり手がいないんだ。」 「ひょっとして、あのコーチとも一緒に働けるかな?」 「もちろん。」 「ちょっと待っていてください。今、申し込んできます。コンタクトレンズもずれたみたいなので、それも直してきます。 ちょっと、時間がかかるけれど、待っていてくださいね。」 そう言うと、彼女は頬の涙を手の甲で拭い、日傘を置き、スポーツセンターに小走りに向かっていった。 行動力のある彼女……。 ベンチの上に置いてあるサーティンワンの袋に蟻が歩いていた。おまえ達も、暑いのにご苦労だな。 僕の頭に響く、彼女の言葉「お母さんのせいじゃない!!」。分かっているさ。おふくろのせいじゃない。 製薬会社のせい? 研究者の怠慢?  それで、この結果?  ふ〜ん、たいしたもんだ。 僕の36年間。昔の恋人。 蒼い海、プールサイドの歓声、ひとりで迎えた朝、悔しさで眠れぬ夜、誰からも愛されない恐怖、左手首の傷……。 動物実験? 催奇形成試験?  データ?  確率?  だから?  それで?  ……。握りこぶしを車椅子に叩きつける。 この痛みをどこに向ければいい? 「大丈夫?」 額に汗を浮かべた彼女が、僕を見下ろしていた。 「……大丈夫さ。マネージャーの口はまだ空いていた?」 「ええ。来週の日曜日から来ます。できるだけ、毎週来ますね。軽井沢のレースまであと1ヵ月ですもんね。 頑張らなくちゃ!」 「君の好きにすればいいよ。」 「そうします。ところで夏休みは?」 「今度の水曜日から次の日曜日まで。」 「ふ〜ん、水曜日か。水曜日に海に行きませんか?」 この娘は、僕の言うことなんか聞いていない。 「無理。」 「どーして?」 「来週の日曜日に、また。今度、来る時には軍手を忘れないように。麦茶おいしかった、ありがとう。」 彼女を置いて、歩道橋へ向かう。後ろから、彼女の足音。すぐに僕の車椅子の脇に並ぶ。 「どーして、無理なんですか?」 僕は黙って、歩道橋の上り坂を車椅子で登る。彼女が、車椅子の後ろにまわり、僕を押す。 「ありがとう、でも、大丈夫。これも練習だから。」 「あっ、そうか。」 黙って、歩く彼女。真っ直ぐ前を向いて歩く。僕は車輪を回しながら聞いた。 「何かのクラブのマネージャーをやったことは?」 「無いんです。私って、あまり器用じゃないんですよね。思い付くとすぐに行動に移すし、それでいて、いつもとんでもないドジをするし。マネージャーが勤まるかしら?」 「Patience。」 「忍耐? う〜ん、難しいかな。」 「だったら、海はもっと難しい。」 歩道橋の上り坂を登り、息を整える。下り坂が僕は苦手だ。いつも、歩道橋のちょど真ん中で止まり、心の準備をする。 車椅子は下り坂でもブレーキが利くようになっていたが、遠い記憶が僕を恐怖に陥れる。 レースでも僕は下り坂で、いつも抜かれてしまう。 「大丈夫ですか?」 「ちょっと呼吸を整えている。」 「そうですよね。この歩道橋の上り坂は、私でも結構きついです。 へー、ここからきれいに富士山が見えるんだ。 ワンボックスカーをレンタルすれば、いいですよね?」 「え?」 「海に行くときに、そのほうが乗り降りが楽でしょ?」 僕は答えずに、下り坂に向かった。 スピードを殺さないように、バランスに気を付ける。 まず、最初のスロープ。7mの下り坂。そこで、Uターンのカーブ。カーブで僕の心が萎縮すると、転倒する。 スピードを怖れずに立ち向かい、車椅子を完全にコントロールすればよい。 カーブを曲り、残り7mの下り坂。今日はうまくいった。 日傘をしまい、僕に遅れまいと懸命に走ってくる彼女。 「凄い! 凄いスピードで降りるんですね。怖くないですか?」 「別に。」 「私も海に行きたいの。」 「一人で行けばいい。でなかったら、僕以外とでも。」 「あなたも行きたいって、あんなに日記に書いていたじゃない?」 「無理。」 「どうして? どうして、そう決めつけるの?」 僕は、車椅子を止めた。彼女も止まって、僕を見下ろす。僕はため息をひとつ、つく。 「今までも、ずっとそう。大変なんだよ。」 「今までは、そうだったかもしれない。でも、こらからは違うかもしれないでしょ?」 「それも、きみがあの会社に勤めているから? それも罪滅ぼしなの?  会社に加担したくないから?」 「……。」 黙って、僕を見つめる。 「ごめん。でも、とにかく思っているよりも大変なんだよ。」 「やってみないと分からないから。私は、想像力がないの。どんなに大変かやってみないと、私には分からないの。」 「みんな、今までの人たちも、それで別れたんだ。」 「私は、あなたの昔の恋人でもないし、それに、今の恋人でもないわ。今のところ……」 頑固な性格。 「頑固なんだ。」 「あなたもね。」 「……。そう、そうだね。じゃ、あとでメールで連絡するよ。」 「やった!」 やれやれ。 「エンヤの Only Time が好きです。 あとね、イタリアが好きなの。」 彼女の優しい目が輝いている。笑顔がかわいい。 蝉の声が一層、大きくなった気がした。僕の7年間。 (7)   日記。 “ 今日も暑い一日だったね。蝉がうるさいくらいだ。 蟻は一生懸命働いていたよ。蟻とキリギリスか。 今日の練習は腹筋50回*3セット。背筋50回*3セット。腕立て伏せ50回*3セット。 その後で、ベンチプレスだ。腕がパンパンだよ。 コーチは鬼だ! そうそう、僕の通っているスポーツセンターに新しいマネージャーが入りそうだ。 優しいマネージャーだといいけれどね。 ところで、みんなの夏休みの予定は?僕の夏休みはこんどの水曜日からだ。 予定としては、水曜日に海へ。木曜日は映画ビデオの一日。金曜日は……。” 彼女からのメール。 「デートの返事、ありがとう。水曜日の朝8時に、スポーツセンターの前に車で行きます。 この前はごめんなさい。 あなたのお母さんやお父さん、そしてあなたの気持ちなんて、私には理解できるはずもないのにね。     かしこ。」   僕からのメール。 「“マイサリ”のデータを見たよ。ハッキリ言って、良く分からなかった。 奇形児の生まれる確率だって、良く分からない。 きみが確率は高いというのだから、きっとそうなんだろうね。 このデータが得られた時に、どうして、この薬の販売を中止しれくれなかったのか残念に思う。 障害児が産まれる事がハッキリと分かっていたのなら、とても悔しい。でも、僕は、正直言ってこのデータについてはどうでもいい。 データを公開して、きみがクビになることも厭わないなら、それでもいい。このまま、闇に葬るなら、それはそれでいい。 僕は、製薬会社からの賠償金なんかで、車椅子を買いたくないしさ。 そんなことより、今は北海道のサロマ湖のレースで頭がいっぱいだしね。……海もね。 カサブランカは死んだおふくろも好きな映画だ。Here's to looking at you, kid.」   水曜日の朝、8時に彼女は言っていたとおりワンボックスカーでやって来た。 彼女は僕を抱き上げると助手席に乗せ、車椅子を折り畳み、後部座席にしまった。 「私の好きな江ノ島だけれど、いい?」 「Up to you!」 「OK! では、出発。」 エンヤの音楽を流しながら、車を走らせる。車のエアコンに直接あたるなんて、久しぶりのことだ。 まだ、夏休みに入っている人が少ないのか、道路は混雑もなく快適だった。 青いサマードレス。ヒマワリが咲いている涼しそうなサンダル。小麦色の腕がハンドルを楽しんでいる。 「好きな音楽は何ですか? 何をいつも聴きながら、あの日記を書いているんですか?」 「佐野元春、ボブ・ディラン、スタン・ゲッツ、ショパン。」 「ふーん、まるで、音楽のデパートですね。」 「きみは、何を聴きながら日記を読んでいるの?」 「山下達郎、ジョン・レノン、サザンオールスターズ、ラフマニノフ。」 「まるで、コンビニだ。」 「そうね、あははは。何か飲みますか? いつもの麦茶があります。」 「要らない。」 「遠慮なくどうぞ。最近、腕立て伏せをやっているんですよ。」 「マネージャーとして当然だね。」 「フフン!」 日差しが眩しい。喉も渇くさ、人間の生理だからね。   海岸は、結構な人出だった。 彼女は、車椅子をセットし、僕を乗せてくれた。 駐車場内は、車椅子でも移動できるが、砂浜は無理だった。 「ちょっと、待っていてください。先に荷物を置いてきます。」 ビーチサンダルに履き替えて、彼女は砂浜を走って行った。 屈託のない、明るい性格。顔に似合わず芯が強い。強い意志をもった健全な精神の持ち主だ。 「じゃ、行きましょう。」 僕を抱きあげ、砂浜を歩く。砂に足を取られながら、歯を食いしばりながら懸命にバランスをとって歩く。 ビニールシートに僕を静かに下ろす。ビーチパラソルの日影は僅かだ。今度は車椅子を取りに走っていく。 ラジカセからは、サザンオールスターズ。チャコの海岸物語。青い空と蒼い海。肌にまとわりつく潮風。 「はぁー、熱射病、ちょっと休憩。はーぁ。」 「マネージャー失格。」 「いいですよー。あのコーチに、私もしごいてもらうわ。」 彼女はビニールシートに倒れ込んだまま、息を整えていた。健康そうな背中が上下している。 ビーチボールに戯れる恋人達。浮き輪で遊ぶ子供。首をかしげて僕を見つめるカモメ。 「ビール飲んでいいですか?」 膝を抱えて、彼女が問い掛けてくる。 「遠慮無く。僕に麦茶を取ってくれる?」 「ハイ、どうぞ。じゃ、乾杯!」 「何に?」 「軽井沢ロードレースと、サロマ湖100Kmレースに!」 「乾杯。」 「Cheers!」 喉を鳴らして、ビールを飲む彼女。 「軽井沢は、9月10日でしょ? サロマ湖はいつなんですか?」 「多分、10月の最終日曜日。」 「そっちにも、マネージャーとして、参加しますね。」 「みんな喜ぶよ。それまでに、マネージャーとして一人前になってほしいもんだ。」 「もちろん! 海に入ります?」 本当に、僕の言うことを聞いていないんだ。 「無理。」 「でも、パラリンピックであなたと同じような人が、泳いでいる風景をテレビで見ましたよ。」 「お願いだから、無理を言わないでくれる? 僕とそういった特殊な人と一緒にしないで。」 「どうして? 本当にあの人たちは特殊なんですか?」 「……。」 「ふ〜ん。」 ビールを飲み、海の沖を眺める。何を考えているんだろう? 時折、悲しい目で遠くを見ることがあるのはクセ? 「僕は、別に泳ぎたくなんかないんだ。ただ、こうして海を眺めているだけでいい。」 「本当に?」 「本当に。」 「僕を苦しめないで欲しい。」 「……ごめんなさい。」 「気持ちはありがたいけれどね。時々、僕には負担に感じるんだ。なんでも僕に求めないで。僕はオリンピックの強化選手でもない、ただの障害者だからね。」 「でも、泳げたら素敵だと思って。一緒に水の中にも入ることができるでしょ。ただ、それだけです。私のわがまま。」 「きみも、泳げないんじゃなかったけ?」 「でも、そんなこと、練習するもん。昔の恋人とは一緒に入ったでんしょ……。」 「きみは、僕の昔の恋人じゃない。きみは今のままでいいんだ。比べる必要なんてない。比べることなんて意味が無い。」 膝に顔をうずめる彼女。 「そうですね。でも、少しでも役にたちたい。 少しでも早く、そう思っただけ……。」 暑い日差しが、彼女の首筋を焼く。 「ありがとう。」 「アイス買ってきます。」 ビーチサンダルを履き、砂浜を駆けていく。 止まったままのカセットテープをエンヤに替える。 “ Wild Child ”静かに、力強く、讃美歌のように、教会音楽のように流れるエンヤの声が心に染み込んでくる。 簡単に約束なんかしないで欲しい。簡単に慰めを言わないで欲しい。そう思ってずっと生きてきた。 でも、これは慰めだろうか? 約束? それとも希望? (8)   「はい、アイス!」 「ありがとう。アイスが好きなんだね? 」 「えー。冬でも毎日食べているんですよ。」 「ふーん。」 「おいしいでしょ?」 「まだ、食べてない。」 「あ、そうか。早く食べてみてください。あははは。」 笑い上戸の彼女。人もつられて幸せになる笑い声と笑顔。 「アイス以外に、何が好き?」 「お漬物」 「え?」 「お漬物が好きなんですよ。変ですか?」 「いや、ちっとも。」 「あと、お風呂に入れる入浴剤にも凝っているんですよ。」 「へー」 「最近は、乳白色になるのが好き。十和田湖温泉巡りもいいかな。」 「あははは!」 「えー可笑しいかな〜?」 溶け始めたアイスに悪戦苦闘しながら、彼女も笑う。 エンヤの音楽が海岸に流れる。静かに、力強く。 彼女が微笑みながら、僕を見る。 「なに?」 「別に。」 どうして、そんなに優しい表情ができるの? 「なに?」 「なんにも。」 まとわりつく潮風。波音が大きくなる。男女の歓声があがる。 ……。 「トイレに行きたいんだけれど」 「あ、はい。」 彼女は、車椅子を駐車場まで運ぶ。そして戻ってくると、こんどは僕を抱き上げ、砂浜を歩く。 ファンデーションとリンスと汗のにおい。柔らかい髪が僕の首筋にあたる。 僕を車椅子の乗せると後ろに回り、車椅子を押す。 「大丈夫。ここで、待っていて。」 男性トイレに入る。そして、また出ると彼女を呼んだ。 「だめだ。ここのトイレ、補助バーがない。」 「どうすればいいですか?」 「僕を後ろから支えて。」 「はい。」 ……。 「どうもありがとう。」 「ううん、別に。まだ夕焼けには時間がありますね。」 「そんな時間までいるの?」 「夕日を見て、叫びましょうよ。」 「青春ドラマの見すぎ……。」 (上へつづく) . posted by ホーライ at 21:34| Comment(0) | e-mail | | e-mail(5)     (6) 「違うわ!!」 彼女は、麦茶の入ったコップを落として立ち上がり、僕を見下ろした。 「それは絶対に違う! あなたのお母さんのせいなんかじゃない!! あなたのお母さんは、ただ眠れなくて、お医者さんから出された薬を信じて飲んだだけ! 誰だって、苦しい時には薬に頼るし、まさか、薬でこんなことになるなんて誰も思わないわよ!!」 彼女の目から涙が溢れていた。 白い日傘が僕の膝に飛んできた。紙コップを握り締めて僕を見下ろす彼女。蝉が鳴いている。僕の地中の7年間。 死んだおふくろを許せぬまま過ごした7年間。いつも誰かを怨むことで、自分を慰め、消耗しつづけた7年間。 「あなたにお母さんの気持ちなんて分かりっこないのよ! どんなにお母さんが自分を責めて、苦しんだことか分からないの? どんな母親だって、自分の子供を苦しめるために産むんじゃないのよ。 幸福な人生を夢みて、産まれてくる子供を待ち望んでいたはず……」 僕は、彼女から借りたタオルを差し出した。 彼女はタオルを受け取ると顔に押し当て、ベンチに座り、顔を埋めた。 日差しが、傾いてきた。僕は麦茶を飲んだ。 「おふくろが、どんな思いで薬を飲んだのか分かる。あの人はもともと不眠症気味だった。 僕を産んだ後はますます、その不眠症が進んだんだ。カウンセリングなんて言葉がなかった時代に、おふくろは苦しんでいた。 そして、僕に車椅子の動かし方を教え、僕をできるだけ、いろんなところに連れていってくれた。 おやじもね、苦しんでいたとは思う。 そのデータを貸してもらえるかな? ゆっくり見てみたい。」 タオルから顔を上げた彼女は、微笑むと赤い目を僕にむけた。 「汗くさい。あはは、汗くさいわ、このタオル。 いいですよ、データを持っていって。はい。」 数字だけの、とても理解できそうもないデータを受け取り、僕も笑った。 彼女は僕の膝に飛んできた日傘と落とした紙コップを拾い、話しを続けた。 「ごめんなさい。本当にお母さんの気持ちも、おとうさんの気持ちも、あなたの気持ちも知らないのは、私ね。」 「傘まで飛ばして僕のおふくろを弁護したのは、きみが始めてだよ。」 「あははは、どうもすいません。ねぇ、軽井沢のレースに応援に行っても、いいですか?」 「別に、僕の許可なんて必要ない。」 「そうか。あっ、ここのマネージャーを募集しているのは、本当なんですね。受付のところに募集広告が出ていました!」 「うん、地味な仕事なんで、あまりなり手がいないんだ。」 「ひょっとして、あのコーチとも一緒に働けるかな?」 「もちろん。」 「ちょっと待っていてください。今、申し込んできます。コンタクトレンズもずれたみたいなので、それも直してきます。 ちょっと、時間がかかるけれど、待っていてくださいね。」 そう言うと、彼女は頬の涙を手の甲で拭い、日傘を置き、スポーツセンターに小走りに向かっていった。 行動力のある彼女……。 ベンチの上に置いてあるサーティンワンの袋に蟻が歩いていた。おまえ達も、暑いのにご苦労だな。 僕の頭に響く、彼女の言葉「お母さんのせいじゃない!!」。分かっているさ。おふくろのせいじゃない。 製薬会社のせい? 研究者の怠慢?  それで、この結果?  ふ〜ん、たいしたもんだ。 僕の36年間。昔の恋人。 蒼い海、プールサイドの歓声、ひとりで迎えた朝、悔しさで眠れぬ夜、誰からも愛されない恐怖、左手首の傷……。 動物実験? 催奇形成試験?  データ?  確率?  だから?  それで?  ……。握りこぶしを車椅子に叩きつける。 この痛みをどこに向ければいい? 「大丈夫?」 額に汗を浮かべた彼女が、僕を見下ろしていた。 「……大丈夫さ。マネージャーの口はまだ空いていた?」 「ええ。来週の日曜日から来ます。できるだけ、毎週来ますね。軽井沢のレースまであと1ヵ月ですもんね。 頑張らなくちゃ!」 「君の好きにすればいいよ。」 「そうします。ところで夏休みは?」 「今度の水曜日から次の日曜日まで。」 「ふ〜ん、水曜日か。水曜日に海に行きませんか?」 この娘は、僕の言うことなんか聞いていない。 「無理。」 「どーして?」 「来週の日曜日に、また。今度、来る時には軍手を忘れないように。麦茶おいしかった、ありがとう。」 彼女を置いて、歩道橋へ向かう。後ろから、彼女の足音。すぐに僕の車椅子の脇に並ぶ。 「どーして、無理なんですか?」 僕は黙って、歩道橋の上り坂を車椅子で登る。彼女が、車椅子の後ろにまわり、僕を押す。 「ありがとう、でも、大丈夫。これも練習だから。」 「あっ、そうか。」 黙って、歩く彼女。真っ直ぐ前を向いて歩く。僕は車輪を回しながら聞いた。 「何かのクラブのマネージャーをやったことは?」 「無いんです。私って、あまり器用じゃないんですよね。思い付くとすぐに行動に移すし、それでいて、いつもとんでもないドジをするし。マネージャーが勤まるかしら?」 「Patience。」 「忍耐? う〜ん、難しいかな。」 「だったら、海はもっと難しい。」 歩道橋の上り坂を登り、息を整える。下り坂が僕は苦手だ。いつも、歩道橋のちょど真ん中で止まり、心の準備をする。 車椅子は下り坂でもブレーキが利くようになっていたが、遠い記憶が僕を恐怖に陥れる。 レースでも僕は下り坂で、いつも抜かれてしまう。 「大丈夫ですか?」 「ちょっと呼吸を整えている。」 「そうですよね。この歩道橋の上り坂は、私でも結構きついです。 へー、ここからきれいに富士山が見えるんだ。 ワンボックスカーをレンタルすれば、いいですよね?」 「え?」 「海に行くときに、そのほうが乗り降りが楽でしょ?」 僕は答えずに、下り坂に向かった。 スピードを殺さないように、バランスに気を付ける。 まず、最初のスロープ。7mの下り坂。そこで、Uターンのカーブ。カーブで僕の心が萎縮すると、転倒する。 スピードを怖れずに立ち向かい、車椅子を完全にコントロールすればよい。 カーブを曲り、残り7mの下り坂。今日はうまくいった。 日傘をしまい、僕に遅れまいと懸命に走ってくる彼女。 「凄い! 凄いスピードで降りるんですね。怖くないですか?」 「別に。」 「私も海に行きたいの。」 「一人で行けばいい。でなかったら、僕以外とでも。」 「あなたも行きたいって、あんなに日記に書いていたじゃない?」 「無理。」 「どうして? どうして、そう決めつけるの?」 僕は、車椅子を止めた。彼女も止まって、僕を見下ろす。僕はため息をひとつ、つく。 「今までも、ずっとそう。大変なんだよ。」 「今までは、そうだったかもしれない。でも、こらからは違うかもしれないでしょ?」 「それも、きみがあの会社に勤めているから? それも罪滅ぼしなの?  会社に加担したくないから?」 「……。」 黙って、僕を見つめる。 「ごめん。でも、とにかく思っているよりも大変なんだよ。」 「やってみないと分からないから。私は、想像力がないの。どんなに大変かやってみないと、私には分からないの。」 「みんな、今までの人たちも、それで別れたんだ。」 「私は、あなたの昔の恋人でもないし、それに、今の恋人でもないわ。今のところ……」 頑固な性格。 「頑固なんだ。」 「あなたもね。」 「……。そう、そうだね。じゃ、あとでメールで連絡するよ。」 「やった!」 やれやれ。 「エンヤの Only Time が好きです。 あとね、イタリアが好きなの。」 彼女の優しい目が輝いている。笑顔がかわいい。 蝉の声が一層、大きくなった気がした。僕の7年間。 (9) 目をあける。 「何時の飛行機?」 「8時。」 「最初はロンドン?」 「そう。半年はロンドンで勉強。次にイタリア。」 「ふ〜ん。」 目を閉じる。   目を開ける。 「向こうから戻ってきたら?」 「う〜ん、まだあまり考えていないの。」 「他の製薬会社は?」 「無理だと思う。きっと、ブラックリストに載っていると思うの。」 「そうだろうね。」 「福祉関係の仕事で、海外と協力するNPOあたりかな。でも、向こうに行って、またいろいろ勉強してたら他のことも見つかるかも。」 「うん。 ……きみは、僕を地上に出してくれた。」 「え?」 「ありがとう。」 「……」 ただ黙って微笑む。 目を閉じる。   日記。 “ 海に行ってきた。久々に潮風に触れたね。江ノ島は初めてだったけれど、良かったな。海は生命の母だってね。 そのうち、スキューバーダイビングにも挑戦しょう! 僕はオリンピックの選手でもなんでもない。せいぜい、市民ロードランナーだ。 だから、頑張る必要もないしね、気楽にやればいいんだ。 ところで、海岸を管理している地方自治体の皆さ〜ん、トイレには障害者用の補助バーをお忘れなくね、頼むよ、ホントにさ。 デートならいいけれど、一人で来たら大変だからさ。(デートでも彼女が手伝ってくれないとだめだけどね。) みんなはさ、海や湘南と言えば、サザンだと思っていない? エンヤも合うだんな、これが。 ただし、ラジカセが砂に埋もれないように注意しよう。でないと、あとでスピーカーからジャリジャリと砂が落ちてくる。 鼻の頭が日焼けで皮がむけちゃったよ。う〜ん、7年振りだ。 7年前、おふくろが、癌で死んだ翌月に僕は恋人と海に行った。あの日も暑かった。それがいけなかった。 コーラを飲みすぎてさ、膀胱が破裂しそうだった。そこでトイレに行くと、やっぱり補助バーが無い!! 彼女を呼んで、うしろから支えて欲しいと頼んだけれどね、駄目だったね。 彼女が泣き出しちゃった。泣きたいのは、僕の膀胱さ。 もう一度頼むよ、地方自治体の皆さん。補助バーが無かったために、一組の恋人達が別れることもあるんだからさ。 今夜は顔がヒリヒリ痛むので、寝付かれないかな。おやすみ……。”   彼女からのメール。 「スキューバーダイビングのライセンスを取ってみようかな。   かしこ」 いつも新しい戦いを見つける彼女。 彼女は、スポーツセンターのマネージャーを、良くこなした。 僕と他のメンバーとの潤滑油の役回りもしてくれた。僕にも友人が増えてきた。 コーチともすぐに馴染んだ。 「彼女、忍耐強いね」 コーチは、僕に言った。 「普通だったら、この手の肉体労働や、油まみれになる車椅子の整備なんて嫌がるけれどね。」 「自分で言い出したことだからでしょ。頑固みたいだから。」 「軽井沢にも来るんだって?」 「そうみたいね。」 「どこで、知り合ったの?」 「くもの巣にひっかかっていた。」 「え?」 「冗談。本当はこのスポーツセンターの前。日傘をくるくる回していたんだ。」 「明るくなったね、あなた。」 「コーチのおかげ。」 「アイス好きのコーチのほうのね。」 日記。 “いよいよ、明日、軽井沢のレースに向かって出発だ。 昨日までの大雨で、道路が滑りやすくなっているとヤバイな。 健闘を祈ってくれよ、みんな。 このレースが済んだら、いよいよ、念願のサロマ湖だ。 今年こそ、去年の雪辱を果たしてやるぞー。“ 軽井沢まで、彼女の運転する車で行くことになった。 「コーチとも話したんだけれど……」 「うん。」 「今度のレースでは、私はゴールの2Km前に居るね。 白樺の林から、最終直線コースに入る坂のところ。 そこが、一番危ないところだからってコーチが教えてくれたの。」 「去年も、そこで3人に抜かされた。」 「今年はどう?」 「多分、大丈夫だと思うよ。体重移動のコツが分かった。下り坂から、大きく右に曲がるところなんだ。」 「あなたの弱点ね。下り坂。」 「そう。昔、小学生の頃、近所の中学生に下り坂を押されたことがあるんだ。右から来た大型トラックが僕の鼻先をかすめていった。 それ以来、下り坂になると、運送屋の車が右から暴走してくるのが見えるようになってしまったのさ。 どうしても、恐怖が蘇る。」 「大丈夫。私の写真を車椅子の後ろに貼っておいてあげたからね。 左の手首はつっぱらなくなった?」 「それは、だめだね。」 「そう……。前半は、とばさないで、抑えて行ってね。平坦なコースが続くから、そこで飛ばすと、後半に響くわ。」 彼女はマネージャーとなってから、自分でも走り始めた。 市営グランドのトラック練習では、みんなと一緒に走った。 僕らの練習以上に、コーチも彼女に指導してくれた。そのお陰で、彼女は6kgも痩せることが出来たと大喜びしていた。 「ね、私の体重はまだ、キープできているのよ。こんなことなら、夏に入る前からマネージャーになるんだった。今までで一番成功したダイエットだわ。でも、本当にあのコーチって素敵よね。」 「きみのほうが、ずっと素敵さ。」 「え? もう一度、言って。」 「笑顔が、いい。」 「笑顔だけ?」 「熱いな・・・」 笑いながら彼女がエアコンを強くしてくれた。 レース当日は朝のうち霧がかかっていたが、スタートする頃には、日が差してきた。 このレースは、サロマ湖レースの準備としては、距離も日程としてもベストな大会のため、全国から強豪が集まる。 ここで、最後の調整をして、サロマ湖に臨むのだった。 僕はレース前のこの緊張が好きだ。この瞬間に彼女と一緒にいることが嬉しい。 「じゃ、頑張ってね。」 「うん。」 「白樺林の先で待っているから。」 「OK」 レースは順調だった。 彼女が調合してくれたドリンク剤を5Kmおきに飲んだ。 汗が心地よい。去年も走った道だ。ペース配分も問題なかった。 前半を終わって上位1割のところにいた。何人かの仲間もすぐ後ろからせまってくる。 選手たちの息遣いが聞こえる。 レース中はずっと、彼女とメールの交換を始めてからの時間を思い出していた。 こんなに楽しいレースは初めてだった。 彼女の姿を思い出し、彼女の姿を見ることだけを思い描きながら、アスファルトを行く。 コーチとの作戦どおり、白樺林に入る残り10Kmからスパートをかけた。 木漏れ日の中を僕は車椅子を転がす。 彼女から初めてのメールを貰ってから2ヶ月。 この夏は、海にもプールにも何回か行った。全て彼女がサポートしてくれた。 彼女は僕の心のマネージャーでもあった。パートナーとして最愛の人だった。 スイミングスクールに彼女が通い始めた。僕もスポーツセンターで泳ぎを習い始めた。 あのデータの件は、その後、二人の間では話題にのぼらない。僕にとっては、もうどうでもよいことだ。 この林を抜けると彼女が待っていてくれる。 ラスト3Kmの標識。 ここで、最後のスパート。ここから、下り坂を一気に下る。 彼女の姿が見えてきた。みんな、ここで勝負だ。 スピードを捕らえ、体重を右にかける。腰をスライドさせ、そして右に曲がり……。 突然、空が回転した。 激しい、痛みが肘と肩を走った。 長い坂が今朝の霧で濡れていたことを思い出した。 僕は、恐怖を乗り越えていたはず。彼女の姿を捉えていたはず。 スリップだ。僕の心は恐怖で萎縮なんかしなかったはずだ。 僕の体が道路の上を三回転して止まった。 頭の脇を急ブレーキをかけながら、車椅子が走り抜けていった。 気がつくと車椅子から5mばかり投げ出されていた。 僕は体の調子を調べた。右手は問題ない。左手の肘を道路のアスファルトで切っていた。 肩から先が痺れて、左手は満足に動かない。 口の中で錆びた鉄の臭いがする。 「大丈夫?!」 彼女がコース脇から声をかけてくれる。 頭はヘルメットで保護されていたが、ショックで霞がかかったようだ。 僕は、車椅子のところまで這っていった。選手の車椅子が猛スピードで僕を避けて走りぬけていく。 何人かの仲間が心配そうに声をかけてくれた。 「大丈夫か?」 「なんとか。でも、左手が動きそうにない。」 「棄権か?」 「もうちょっと様子を見るよ。 先に行って、コーチに言っておいて。」 「OK。無理するなよ。」 歯をくいしばり、アスファルトの上を右手で少しずつ這っていく。 いつもこれさ。かっこいいことなんか、一つも無い。 体をひきずりながら、車椅子に近づく。彼女の顔が視界の隅に映る。 車椅子を立て直し、体を寄り掛けた。左手の肘から下が生ぬるい血で覆われていた。 口からつばを吐き出す。血にまじって白いものが飛んでいった。 舌でさぐると前歯が無くなっていた。 徐々に顔の左側が痛んできた。 僕の心は恐怖に勝っていたはず。完全に車椅子をコントロールしていたはず。 でも、今は心が萎えていた。……戦意喪失。 「立ちなさーい!! 何をやっているの! 立つのよー!」 彼女がすぐ脇までやってきて叫んでいた。 コーチやスタッフが選手に手を貸すと、その時点で失格だ。 「なんのために、ここまで頑張ってきたの?! 立ってー!! 頑張りなさいよ!!」 彼女は鬼のマネージャーだ。 僕は、右手だけで体を支え、車椅子に座った。 息を整える。右手で、車椅子を走らせる。 下り坂を惰性で、ゴールに向かった。 ゴールにたどり着く。 車椅子を左に寄せる。コーチがやってきた。 「ちょっと左手をみせて。う〜ん、ちょっとやばいかも。吐き気は?」 「少し。」 「病院に行ったほうがいいね。」 コーチが救急車のほうに僕を押していこうとした。 スタッフの中を掻き分けて、彼女が僕のところに飛び込んできた。 僕の顔を見ると、泣きながら僕の頭を抱きしめた。 「大丈夫?」 「まぁね。」 彼女のポロシャツが僕の血で真っ赤に染まっていった。 (10)   結局、僕は左腕の骨にひびが入り、サロマ湖のレースを断念した。 目標がまた、来年に伸ばされた。 日記。 “みんな、元気? ついにやっちゃったよ。左手を負傷してしまった。 サロマ湖はまた、来年の兆戦ということになった。 でも、僕は恐怖を克服したんだ! 今まで、下り坂を車椅子で降りる時に、トラックが突っ込んでくる幻覚が有ったんだ。 笑うなよ、本当だ。だから、いつも、下り坂ではスピードを出せなかった。 今回は違う。恐怖は克服した。 ただ、道路状況の判断が甘かったのさ。ちょっと濡れていたんだ。” しばらく、僕はスポーツセンターを休んだ。 彼女は時々、僕をお見舞いに来てくれた。 いつもと同じ、明るい表情だ。 だから、彼女からの最後のメールが届いた時は驚いた。 10月のサロマ湖レースの日。 彼女からの最後のメールが届いた。 「私、会社を辞めることにしたの。 イギリスへ、語学とスポーツ心理、社会福祉の勉強に行くの。 突然で、ゴメンなさい。 “マイサリ”のデータをWeb上に公開しました。URLはここです。 http://www.******.*** このことは誰にも、何も言ってないから、インターネットの渦巻く波の下に埋もれるかもしれません。 これが正しい選択だとは思えない。 こんなデータを公開したところで、なんにもならないことは知っています。 でも、軽井沢のレースで、あなたが転倒した時に気がついた。 全国の“マイサリ”の犠牲になった人たちにも、みんなの体は、お母さんのせいじゃないことを伝えるべきだってことを。 みんな、なにも失っていないってことも。 誰も手伝ってくれない、自分一人で起き上がるしかない人たち。 もちろん、あなたの傍らに私がいるように、全国の障害者の人たちにも誰かがついていると思います。 きっと、そんな人たちの支えが、難病の人たちや障害者の人たちの心の支えになっているに違いありません。 でも、最後に立ち上がることを決めるのは本人です、あなたのように。 過酷なレースだけど、新しい戦いは、いつだってまずは自分一人で向かわなければならない……。 そして始まったレースは一人きりじゃないわ。二人でこれからもね。 私は、あなたのそばにいるために、もう少し勉強することにしたの。 イギリスには1年位、行く予定です。半年はイタリアにも行くかも。 出発は来週の月曜日。出発の前に会えるかしら?」 目を開ける。 「あなたのことを大事にしたい。」 「僕も、きみのことを大切にしたい。あの時、立ち上がれたのは、きみのお陰だ。」 「あと、1年だけど待てる?」 「もちろん。今まで36年も待ったんだ。あと1年位、なんでもないよ。……綺麗だよ。きみが好きだ。」 「ありがとう。私もあなたの笑顔がとても好き。サロマ湖には、二人で兆戦できるかも。じゃ、行ってくるわ。」 「うん。」 彼女は荷物を持ち、僕のところにやってきた。 そして腰をかがめて、僕にキスをした。 「元気で。チャオ!」 「元気で。」 「向こうから、またメールを出すね。」 「うん。」 日記。 “みんな、元気かい? 寒くなってきたね。 イギリスはもっと寒いらしい。ロンドンでは、観測史上最も早い初雪が降ったようだ。 インターネットは凄いよ。東京とロンドンの距離なんて関係ないさ。 今日も、海外の友人からメールが来た。 僕の最高の友人だ。コーチより100倍は素敵だ。 さて、今日のBGMはいつものとおりエンヤだ……。” See you!     (終了)