「携帯メール」(作:ホーライ) (1) 晩秋の東京では落ち葉がゴミと認識される。 僕はそのゴミの上を歩いていた。 道路に降り積もった公孫樹の葉の上を。 今夜は流星を沢山見ることができると街を行く人たちが話している。 空を見上げてみたが、街の明りでシリウスさえやっと見える程度だ。 都会には夜空が必要無いとでも言うように、ビルの窓から、飲み屋の看板から、クリスマスのイルミネーションから光が夜空へ放たれていた。 胸ポケットで携帯が3回震えて止まった。 『調子はどう?検査の結果は?』 短い文章は彼女が自由にメールを打てる時間を見つけ、必要最低限のことだけを伝えてくれるからだ。 遠い街から流星が降る夜空を飛んで、東京の片隅まで届く彼女からの言葉が僕の生命を支えていた。 『検査の結果は胃がんの初期。来月切除予定』 僕も簡単に携帯のボタンを押して返信する。 人間の命について、ポケットに入る機械のボタンで伝えられる時代に僕は生きていた。 吐血してから2週間。 僕の胃に悪魔が住みついていた。 胃カメラを覗いていた医師が僕に言った。 「あなたはラッキーだ。幸運だった。」 喉からファイバーを突っ込まれている僕は、目に涙を浮かべ、さっきからこみ上げてくる吐き気と戦うのが精一杯だった。 何故、幸運なのか、それは正式に検査の結果が出た今日、知らされた。 「出血の原因は胃潰瘍でしたが、胃がんも見つかりました。」 「……。」 「製薬会社にお勤めですね? しかも抗癌剤を出している。うちの病院でも使ってますよ。」 「……。」 ほんの数分前と違う、別次元の世界に飛び込んだような錯覚を憶える。 「MRですか?」 それは僕に向けられた質問のようだった。ほかに誰もいない。 「臨床開発を……」 他人が答えているような声が、診察室を反響して耳に届く。 「だったら、話しは早い。」 医師は、カルテを僕に見せた。 「あとで写真も見せますが、ここに I 期の胃がんがあります。で、ここに胃潰瘍が別にあります。今回の吐血の原因は胃潰瘍でした。」 カルテに書かれた胃の絵に流れるような矢印が書いてあり、その矢印は胃底を指していた。 そして、矢印の出発点には「tumor」の文字。 間違い無く、癌だった。 「吐血が無かったら見つからないような、ごく初期の胃がんです。 簡単に切除して取れます。癌種はその癌組織をとってから調べます。」 仕事で理解していることが、自分の世界に入ってくると、それはまるで他人のようだ。 淡々と事務的に説明する医師。 「これが、あなたの胃です。」と医師は鮮明な写真を見せてくれた。 「ここが出血のあとです。これは胃潰瘍。そして、ここが見つかった胃がんです。」 明るい光が診察室の窓から指し込んできた。 その診察室内を事務的に働き回る看護婦。 清潔感漂う、その看護婦の白衣が太陽の光を跳ね返していた。 検査結果をメールで送って、街を彷徨っていた。 携帯電話が震えた。 今度は3回で止まらない。 画面には彼女の名前が出ていた。 「大丈夫?」 彼女の声は、いつでも僕の気持ちを暖かくさせる。 「きみこそ、今は電話大丈夫なの? 彼は?」 「今日は残業で遅いの。本当に胃がんなの?」 「うん。でも初期の胃がんだから。癌の種類にもよるけれど、取ってしまえば5年以上の生存率は90%以上さ。」 「……。」 携帯の向こうから、息を吸い込む音がする。 「来月、また口からファイバーを入れて、ちょこっと癌を取れば終りさ。」 「……。」 無音が夜の向こうから伝わってくる。 やがて、無言の携帯の向こうからは、彼女の嗚咽の音が聞こえてきた。 クールで、いつも冷静な彼女。 自分を出すことに敏感で、いつも斜に構えるふうを装っている彼女。 その彼女の涙の落ちる音が携帯の向こうから聞こえてくるようだ。 それは、僕の心も動揺させた。 「大丈夫さ。多分、転移もしてないだろうし。 I 期という初期だよ。幸運すぎる早期発見だ。」 彼女は声を殺しながら、涙を落としているようだ。 鼻をすする音が晩秋の冷たい空気を震わせて、僕の耳に届く。 僕は、自分の知識を総動員して、医師と話しをしたこと、その結果、癌組織さえ取り除けば問題無いことを彼女に伝えた。 彼女に説明しているうちに、それは自分のことではなく、治験に参加してもらった被験者さんのことのように思えてきた。 そのことで、僕自身は落着いてきたが、彼女には効果が無かった。 普段のメールのやりとりでは知りえない彼女の痛みが伝わってくる。 「食事は摂った? 彼の食事の準備も済んだ?」 できるだけ、現実の場に彼女を持っていこうとした。 その僕の試みは、逆効果だった。 彼女は、声を出して泣き始めた。 僕は街の小さな公園に入り、ベンチに座った。 こんな所に公園が有るなんて誰も知らない、置き忘られた公園のベンチで、枯れ葉を散らす公孫樹を見上げた。 そこには広い夜空が広がっていた。 枝の向こうにオリオンが光っている。 地球は何事も無かったように、いつもの速さで自転しているようだ。 「ごめん。もう大丈夫。」 鼻を大きくすする音がしてから、彼女はそう言った。 「びっくりしたよ。」 「びっくりしたのは、こっちよ。」 「まぁ、そう言うわけで大丈夫だからさ。心配しないで。」 「ごめんね。かえってあなたを心配させたようで。 もう二度と泣かないわ。」 「うん。」 いつもは強気の彼女は静かにため息をつくと、これから私が貴方のために神様にお祈りしてあげるから大丈夫よ、と言って携帯を切った。 僕はベンチで煙草に火をつけ、オリオン座に向けて煙を吐いた。 僕の命が煙草の煙と一緒に、公孫樹が伸びる夜空に向かって流れていった。 煙を見ながら、胃壁に出来た小さなポリープを思い出し、悪態をついた。 その悪態はビルの壁に跳ね返り、僕のところに戻ってきた。それは悪魔の声に変わっていた。 丁度、今から一年前の秋、僕はある病院に治験を依頼しており、婦人科にモニターとして1ヶ月に一度はその病院に通っていた。 医師とのアポは大抵が時間通りには行かない。 その日も、急遽、オペが入り、僕は1時間ほど待たさることになった。 婦人科の前で待つのは、なにかと落着かないので、僕は総合外来のソファーで本を読みながら時間を潰していた。 「落ちましたよ。」 気が着くと僕は居眠りをしていた。目を開けると栞を僕に渡す女性が立っている。 「ありがとうございます。」 彼女は僕に微笑みと栞を渡すと、隣のソファーに座り、本を広げた。 その本は、僕が今、読んでいる本だった。 「風の歌を聴け」 これまで何回、読み返したことだろう。 ページがぼろぼろになっては、買い替え、そしていつもポケットに入れて持ち歩いている本。 作者の生まれた街まで、行ったことがある。 大学卒業前に行っておきたくて、ただ同じ風景を見たくて、一度だけ行った 港の見える街。そして山。 僕の誕生日に大きな地震で崩壊しかかった街。 いつか、もう一度行きたい街。 彼女の読んでいる本も、カバーの角が切れかかっている。 「その本が好きなようですね。」 「えっ?」 「僕と同じだ」と言って、持っていた7代目の「風の歌を聴け」を見せた。 「そうですね。……私達、同じですね。」 笑顔が光の中に生まれた。 (2) 秋の気配が、知らないうちに忍び込んできた街。 今日の仕事も終り、駅へ向かう道を私は急ぎ足で歩きながら時計を見た。 あと2分で次の電車が出る。 私は足を速めた。 夕暮れの買い物客が多い道を、私は駅へ向かう。 一番星が、そろそろ出るころかしら。 仕事……。 私にとっての仕事。生活の糧を得るため?外との関わり? まぁ、いいわ。とにかく、今日の仕事もきっちりとクリアした。 偏頭痛さえ来なければ、今日もそれなりの一日として私の中では終わる。 電車の発車ベルが鳴っている。 改札を走り抜け、電車に向かったけれど、目の前でドアは容赦無く閉まった。 フッと思わず出るため息。 私は仕方無くプラットホームをブラブラと歩く。 夕闇が街を包み込んで行く。 一軒、一軒の家から出ている光。 あの光一つに、一つの家族が有る。 光一つ一つに、それぞれの人間の幸福と不幸が含まれていることを私は知っている。 でも、この前までは、それは歓びと哀しみを感じさせない無機質な光として、私の目には映っていた。 携帯が振動した。 『業務終了!今日は一日「会議は踊る」だったよ。狸と狐の運動会(笑)。僕はこれからジムへ。君は? 』 私の体から疲れが消える。 『私も終り。電車を逃しちゃった。本でも読んで次の電車を待つわ。』 私と同じあの人。 私と違うあの人。 「風の歌を聴け」をいつも持ち歩くあの人。 ベンチに座り、ブルーを読む。 ……なかなか、本が進まない。 ある病院の総合受付の椅子で居眠りをしていた人。 つい小説のストーリーを自分のことに読替えてしまう癖がついてしまった。 主人公の男女を自分たちに置き換える。 初めて会った日から、まだ数えるほどしかあの人とは逢っていない。 病院の待合室で初めて出会うのも、おかしな出会いだ。 二度目に逢った日の夜に、人通りの中でいきなりキスをしてきたあの人。 それに反応した私。 携帯メールは私たち二人を結ぶ、細い糸。 何色の糸かは、知らない。でも、今は唯一の糸がそれ。 駅のプラットフォームで電車を待ちながら、携帯電話の電波が飛び交っている夜空を見上げた。 一体、何本の糸が走っているのかしら。 澄んだ夜空で月が輝き、星が瞬く。 もう秋が来ていることを夜空は告げている。 私は本を閉じると、やってきた電車に乗った。 あの人のいない家へ帰らなくてはいけない。 携帯メールが届く。 『きみの読んでいる本は何?僕は科学の終焉を告げる本。既に科学は終焉を迎えているんだって。』 親指で返事を書く。 『私はブルーよ。もう読んだ?』 送信。 すぐに届く返事。 『今度、読むつもりだ。面白い?』 『読んでみて。今度逢った時に感想を。』 『了解。』 夜を走る電車は否応無く、私とあの人の距離をさらに遠のかせる。 (3) 仕事も同僚との付き合いも、今まで通りと同じだった。 僕の病気を知っているのは、携帯の電波の先にいる彼女だけ。 彼女は、今までと同じように明るいメールを送ってくれる。 『月と太陽と4月の風。あなたが好きなのはどれ?』 『優しい月の光』 『私も月は好き。でも、明るい太陽の下も好き』 『僕は夏から秋にかけての季節の変わり目も好きだな』 『春よ!絶対に。これから!という感じでしょ?』 ……。 いつもの会話が、僕の心を和ませる。 僕の体内で、今でも我が物顔で増殖し、自分の分身を僕の体中に、ばら撒こうと機会を伺っている癌細胞。 笑いは免疫力を高める。 病気は、自分との戦いだということを痛感した。 精神的に参ってしまっては、肉体も負けてしまう。 少なくとも、彼女とのメールでは、病気の話しは二度と出なかった。 毎日、眠る前には癌細胞が消失していくイメージを頭に描きながら眠りについた。 それは間違い無く、生きる目的を考えさせ、自覚させる時間でもあった。 何故、そこまでして病気と戦うのか? 「死」が怖いからだけなのか。 そうではない。 僕の肉体がこの世界から消えたら、逢えなくなる人がいるからだ。 意識の消失で、その人の笑顔が見えなくなる、声が聞けなくなる、言葉のやりとりが出来なくなる。 耐え難い孤独が永遠と続く……。 何故、こんな単純なことに気がつかなかったんだろう。 僕は、その人のために病気と戦う。 ファイバーを使っての癌の切除。 今朝、手術の説明を医師から聞いた。 ファイバーを口から入れ、癌をかきとる。局部麻酔で済むとのこと。 今日のお昼から食事は無し、点滴だけでエネルギーを維持する。 明日の朝9時から手術を行う。 朝が過ぎ、お昼が過ぎ、そして、暗い病室で一人、明日の朝からの手術を思い浮かべ夜を過ごす。 漆黒の闇。 廊下を歩く看護婦の足音。 遠くで聴こえる街の喧騒。酔っ払いの叫び声と女性の笑い声。 じっと明日の朝を待つ。自分の心臓の音だけが聞こえる深夜。 入院病棟は携帯メールも禁止されていた。 夜10時。携帯を持って外来受付けまで行く。 そして彼女からのメールを受信する。 『今度は何処に行きたい?』 『水の見えるところがいいな』 『海?川?湖?』 『海だね、断然』 『了解。じゃ明日までに作戦を練っておくわ。また明日。オヤスミ』 『うん、また明日ね。オヤスミ』 携帯を切り、病室へ戻る。 孤独が支配する闇と冷たいベッドだけが僕を待っていた。 そして、明日を迎える。明日の夕方にはまた携帯が使える。その時に送る携帯メールの文面を考えて眠りにつく。 彼女の存在だけが、僕に生命の炎を燃え立たせる。 (4) あの人の病気のことを、一人で考えていると知らないうちに涙が出てくることがある。 私に出来ることは祈ることだけ。 あとは、携帯メールでいつものように他愛の無い話題をして、あの人が少しでも病気のことを考えないようにしてあげるだけ。 これは、人生のなかの一つの出来事でしかないと思うようにしてあげる。 朝、起きてトーストを焼くように。 夜、眠る前にハーブティを入れるように。 涙を拭き、明るい心に切り替える。 私の心があの人の心に反応してはいけない。 海岸通りの、海が一望できるレストランを雑誌で探す。 二人で、小さな島に行くのもいい。 それも、全ては明日の手術の結果しだいなのか、どうか。 私には詳しいことは分からない。 雑踏の中を歩く。知らない人が私にぶつかる。 人ごみは嫌いだから、人の通らない裏道が好き。 あの人の行為が全て、私に伝わってくることはない。 多分、外来受付けまで出てきてメールを送ってくれる。 多分、入院ベッドの上で、明日の手術を考えている。 そして、海が見たいと答えてくれる。 私に出来ることは、祈るだけ。 裏通りのビルに挟まれた夜空を見上げ、月に祈る。 わずかで貴重な時間に、電車で駆けつけてくれるあの人の行動力が私をあの人に惹きつける。 私が困っていると、私の住む街までやってきてくれる。 いつも笑顔で迎え、笑顔で別れる。 遥かな「のぞみ」なのかもしれないけれど、私はあの人と共有できる時間を独占したくなることがある。 あの人に残された貴重な時間を。 首を振り、ため息をつくと街を歩く。 とにかく手術の結果がどうあれ海を見に行くことを決め、私は電車に乗る。 癌細胞があの人の体を蝕むようなことはさせない。 私には科学の知識も、医学の知識も、薬の知識も無い。 でも、あの人は抗癌剤の新薬を開発していたこともある。 その人が大丈夫だと言うなら、私はそれを信じていく。 「あの人には癌を再発させない。」 死を思うことが、生をよりかけがいのないものにさせる。 初冬の海へ。 襟を立てながら、山から吹き降ろす北風の中を二人で歩く風景を想像する。 ジャズの似合う街並みが好きだと、あの人は言った。 そして 『君と「風の歌を聴け」の風景の中を歩きたい』 とメールで送ってきた。 そこは私の生まれた街にも近い。 ……気がつくと、私は恋に落ちていた。 (5) 『オペ終了。フラフラだよ。フルマラソンを走った後のようだ。でも完走したよ。きみが待っているゴールに一番乗りさ。』 24時間ぶりに携帯メールを送信。 『お疲れ様!完走おめでとう!あなたのくったくのない笑顔が目に浮かぶわ。ゆっくり休んでね。』 僕の本当の笑顔を知っている数少ない人。 僕の救助信号を感知してくれる唯一の人。 遠く離れていても。 静かに自分を見つめることが出来た時間だった。 死と対峙した時に、人間は初めて自分のやりたいことを理解できる。 企業での利潤追求の仕事は50歳までに、切上げよう。 それまでには子供達も成人している。 あと10年弱を会社勤めしたら、それから先の人生はフリーで働くという夢。 漠然とした夢だったものが、形として捉えられるようになってきた。 ネット社会は、地域によるデバイドを消失させつつある。 どこで働いていても、ネットの中では自分が情報の中心になれる。 東京で働く必要が無くなれば、ジャズの流れる港町に住み、小さなオフィスで海を見ながら働こう。 利潤追求に囚われ、患者の利益より企業の利益を優先させる会社生活にピリオドを打つ。 ベッドの中で、吐き気に襲われながら、はかない夢を現実化させる方法を考えながら眠りについた。 一週間後、癌細胞の再検査の結果が分かった。 比較的、性質の良い癌だった。 「5年生存率は90%以上です。」 医師は微笑みながら言った。 ……それは確率の問題だ。 ぼくが残り10%のほうにいたとしても、不思議ではない。 病院からの帰り道。北風の中を町を歩く。 胃の中まで、風が吹き抜けて行くようだ。 枯葉はもう姿を隠し、町はクリスマスのイルミネーション一色だった。 ジングルベルの歌を聞きながら僕は携帯で彼女にメールを送る。 『僕の5年生存率は90%だって』 『あら、いいじゃない。私の5年後の生存率なんて分からないんだから。 ところで、素敵な海岸沿いのレストランを発見!あとでPCのメールで連絡するわ。』 はかない夢でも、現実化させないといけない。 僕に残された時間を考えると、決して夢を遠くに見てる余裕は無かった。 しかし、それはなにも病気になったからという訳でもない。 本当は、余裕が無いことを自覚したくなかったからかも知れない。 誰もが、自分の時間に区切りをつけて考えたりしないだろう。 明日が永遠にやってくると思い込んだふりをしているだけだ。 それこそ、はかない夢なのかもしれない。 北風の中を僕は地下鉄の駅に向かった。 (6) 新しい一年が始まった。 私がこの携帯を持ち始めて1年。 携帯電話とインターネットで私の人生が変わった。 これまでなら知り合えないような人たちとも知り合いになれた。 そこでの交流を、今のパートナーは知らない。 彼は仕事から帰宅すると新聞を読み、テレビを見て、時間が有ればネットにもつなぐ。 彼のネットを通しての友人を私が知ることもない。 毎日の平凡な人生が嫌いなわけでも、今の生活に不満がある訳でもない。 子供達も徐々に私の手から離れてきている。 新しい人生を考えてもいい。 主婦として母親としての役割が間もなく終える。 妻としての役割がいつ終わるのかは分からない。 そこに終止符を打つつもりが私の心の中に有るのかも分からない。 ただ、あの人との交流も持ちつづけたい。 この関係がいつ終わるのか、どのようにして終わるのか、考えてみることもある。 でも、いつもそれは想像できなかった。 携帯メールをやり取りし、ごくたまに食事をしデートをする。 5年後の生存率にどんな意味があるのかも分からない。 私の5年後? 一年後すら想像できなかった。 あの人と巡り会うことも一年前には分かっていなかったのだから。 自分とパートナーと子供達の年齢だけがはっきりとした数値として分かるだけ。 私の5年後の生存率は、きっとあの人と変わらない。 世界中の人とも変わらない。 5年後の世界に私が存在する確率は不明……。 今年の私の目標は、自分のライフワークを見つけること。 どんなささいなことでもいいから。 私が存在するために必要なライフワーク。 あの人は50歳で会社を辞め、自分の夢を追いかける。 私も少しはそれをサポートできるかも知れない。 でも、私の夢の代わりにはならない。 今年はイタリアにでも行ってみよう。 もう何度か行ったことがあるので友人も多い。 新しい世界を見れば、視野も少しは開ける。 新しい出会いが、また私を新たな世界へ連れて行ってくれるかもしれない。 新しい一年を迎え、まだ活気が戻っていない街へ出かける。 駅前にある本屋で、イタリアの本を買った。 本を抱え、近くの神社に初詣を兼ねてお参りにゆく。 おみくじを買っている時に、あの人からのメールが届いた。 『癌が再発。来月オペの予定』 携帯電話を見つめた。 北風で携帯を持つ手が冷たくなるまで。 (7) 腫瘍マーカーが上昇していた。 一週間置いて二度計ったが、通常の範囲を遥かに超えていた。 MRIの結果、咽喉に小さな腫瘍が見つかった。 北風も入らない妙に暖かい診察室で医師は言った。 「切除しますか?それとも抗癌剤を使いますか? もちろん、切除しても抗癌剤を使います。ただ、切除となると声を失います。」 湿った空気が流れた。 乾燥を防ぐために加湿器を使っているようだ。 「私は切除することをお奨めします。それと放射線照射と抗癌剤をしばらく続けるのが標準的な治療ですね。」 声を失う。 どんな世界が待っているんだろう。 「まぁ、今は人口声帯も有り、訓練すれば意志を伝える位にはなりますから、生活には困らないと思いますよ。」 もちろん、抗癌剤だけで叩くことは無理だというのは知っていた。 多分、僕には選択権は無い。 命と引換えに声を失う。 抗癌剤の治療の苦しさも知っている。 標準的な治療薬で再発したら、今度は治験薬の使用になるだろう。 自分が勤めている会社の治験薬を投与される可能性も有る。 「オペしてください。」 「そうですね。それがいいでしょう。では、今からオペの予定表を調べます。」 医師が出した予定表には、何人かの名前が書かれていた。 さらに「Radi」と書かれている表も垣間見えた。放射線照射の予定表だ。 「来月の14日が空いていますので、その日にしましょう。 入院の準備は看護婦から伝えてもらいます。では。」 外来の別室へ看護婦に連れていから、「入院のしおり」をもとに説明を受けた。 事務的な話しを受け、事務的に答える。 病院の外は新しい年を迎えた街が、いつもの賑わいを見せていた。 『今度の週末に会えるかな?』 携帯のボタンを押す。 携帯が震える。 『いいわ。待っています。』  絶え間なく流れる車を見ながら、僕は彼女に伝える最後の僕の「言葉」を考えた。 (7) 腫瘍マーカーが上昇していた。 一週間置いて二度計ったが、通常の範囲を遥かに超えていた。 MRIの結果、咽喉に小さな腫瘍が見つかった。 北風も入らない妙に暖かい診察室で医師は言った。 「切除しますか?それとも抗癌剤を使いますか? もちろん、切除しても抗癌剤を使います。ただ、切除となると声を失います。」 湿った空気が流れた。 乾燥を防ぐために加湿器を使っているようだ。 「私は切除することをお奨めします。それと放射線照射と抗癌剤をしばらく続けるのが標準的な治療ですね。」 声を失う。 どんな世界が待っているんだろう。 「まぁ、今は人口声帯も有り、訓練すれば意志を伝える位にはなりますから、生活には困らないと思いますよ。」 もちろん、抗癌剤だけで叩くことは無理だというのは知っていた。 多分、僕には選択権は無い。 命と引換えに声を失う。 抗癌剤の治療の苦しさも知っている。 標準的な治療薬で再発したら、今度は治験薬の使用になるだろう。 自分が勤めている会社の治験薬を投与される可能性も有る。 「オペしてください。」 「そうですね。それがいいでしょう。では、今からオペの予定表を調べます。」 医師が出した予定表には、何人かの名前が書かれていた。 さらに「Radi」と書かれている表も垣間見えた。放射線照射の予定表だ。 「来月の14日が空いていますので、その日にしましょう。 入院の準備は看護婦から伝えてもらいます。では。」 外来の別室へ看護婦に連れていから、「入院のしおり」をもとに説明を受けた。 事務的な話しを受け、事務的に答える。 病院の外は新しい年を迎えた街が、いつもの賑わいを見せていた。 『今度の週末に会えるかな?』 携帯のボタンを押す。 携帯が震える。 『いいわ。待っています。』  絶え間なく流れる車を見ながら、僕は彼女に伝える最後の僕の「言葉」を考えた。 (8) 部屋でアジアの写真集を見る。 いつしか、私は時間をつぶす術をいくつも抱きかかえていた。 携帯電話が鳴る。 あの人からのメールであることがメロディで分かる。 写真集から目を離すことが怖かった。 癌が再発したあの人から。 『今度の週末に会えるかな?』 いつも遠くから私のところまで、やってきてくれるメール。そしてあの人。 震える指でメールを打つ。 『いいわ。待っています。』  再発の危険性をいつも抱えながらも、私をくったくのない笑顔で迎入れてくれる人。 まだ、どこに癌が再発したのか聞いていない。 あの人が教えてくれない。 癌は転移する。 どこに再発したのだろう。 胃? それとも別の場所? 私もネットで胃がんのことを調べた。 初期の発見なら5年生存率が高いこと。 でも、転移したら今度は手術だけでなく抗癌剤治療も必要になるだろうということ。 癌が転移していたら、転移が見つかった場所だけでなく、まだ見つからないほど小さな癌が体のどこかに潜んでいる可能性がある。 だから、手術で見つかった場所だけでなく、抗癌剤を使い、体中に潜む癌細胞を殺す必要があるらしい。 どこか、遠い国の話しと思っていたのに。 今の私にできることは、希望を失わないことだけ。 現実を見据え、それに立ち向かうだけ。 涙は見せない。 風が窓の外に見える樹木の枝を揺らしている。 私もいつか、この地上から消える。 あの樹木たちが、残っているだろう100年後。 私はいない。 遠くに見える山と雲。 500年後にも、あの山と雲は存在するだろう。今までそうだったように。 アジアの仏像。ヨーロッパの芸術。アフリカの古代文化。各地に伝わる民話、民謡。 千年単位で想いを走らせる。 これから生まれてくる子どもたちがいる。 「時間は遥かな未来まで繋がっているんだわ。」 言葉が口をついて出てくる。 私に残せるものが有る。 本を閉じ。 パソコンのスイッチを入れた。 そして、二人の記録を残すために、サイトを立ち上げるためにネットに繋いだ。 私は二人の出逢いを思い出し、文字を入力した。 白く光るディスプレイに向かって。 私とあの人が生きてきた証として、どんなに辛いことがあっても書き続ける。 『「僕と同じだ」と言って、あの人は「風の歌を聴け」を見せた。 「そうですね。……私達、同じですね。」 こうして、私たちは出あった。 病院の総合受付の前で……。』 (9) 部屋の時計を見る。 秒針が一秒ごとに時を刻む。 一秒ごとに、自分の声を失う時間が近づいてくる。 一秒ごとに、自分の死が近づいてくる。 夕闇が街の空を染めてきた。 鳥の鳴き声が遠く聴こえ、飛行機雲が空を斜めに切る。 僕の心と体を開放してくれた彼女に告げる最後の言葉を考える。 綾戸智絵が唄う「Let it be」がどこからか流れてきた。 乳がんだった彼女は「生命の力」に気づく。 フジコ・ヘミングも難聴になってから「演奏」が変わる。 ホーキングは言う「病気になって気づいたんだ。自分の時間の貴重さを。」 何も怯える必要は無い。 不完全燃焼するほうが耐え難い。 「なるようになる」 綾戸智絵がシャウトする。 彼女の声が、胸に染み渡るのを待つ。 部屋が夕闇に包まれると、僕は彼女に伝える言葉を考え始めた。 それは「肉声で伝える最後の言葉」でしかない。 僕にはまだ、メールを打つ指が有る。まばたきで意志を伝える人もいる。 言葉を考える脳が有る。 僕にはまだ、夕焼けを感じる視力が有る。 彼女の声を聴く聴力も有る。 声を失うことの哀しみが、夕日とともに沈んだ。 (10) 海へ向かう船が見える。 緑と青でライトアップされたホテル。 その夜景の前に座っている彼女。 「ここのパスタ、おいしいわね。ピザも。」 「うん。少し風が寒いけれど。味は悪くない。」 ビル・エバンスのピアノが流れる空間と時間を二人で共有する。 「手術は何時から?」 「10時。」 「OK。その時間に私はあなたのほうへ向かって、祈りの言葉を送ってるわね。」 「ありがとう。」 「どれくらいかかるの?」 「オペ自体は1時間もあれば終わるよ。」 「人工声帯はすぐにつけるの?」 「それは、一年後くらいにね。まずは、癌細胞を叩くことに専念しないといけない。」 「そう。」 暗い照明の中で、彼女の瞳が僕を見据える。 「薬は?」 「飲むよ。」 「副作用はあるの?」 「うん、一般的な抗癌剤の副作用がね。毛髪が抜けたり、吐き気とか、下痢とかね。それは薬を使い始めてからでないと分からない。」 「でも、あなたは薬の専門家だから、いいわね。お医者さんに薬の指示を出したらいいんじゃない?」 「そうだね。僕は薬剤師だからね。」 「そうよ。薬に関してはお医者さんより詳しいんでしょ。」 話しながら、彼女の目から涙が流れ、港の光に反射して頬を伝わっていた。 口元に笑みを浮かべながら、彼女は僕を見つめる。 「携帯メールは打てるからいいわよね。」 「病室からは打てないけれど、散歩がてらに病院の外に出て送るよ。」 「どれくらい入院しているの?」 「多分、1ヶ月くらいかな。しばらくは点滴で、それから流動食だ。」 「じゃ、今日は沢山食べて。まだ他にも頼む?」 「地中海風リゾット。」 料理と音楽と夜景と彼女。 時間が一秒ごとに使われてゆく。 「抗生物質も使うの?」 「うん、オペのあとは必ず使うよ。感染病にならないようにね。」 いつもより、おしゃべりな彼女。 ----- *** ----- 料理が喉を通らない。 テーブルに来たリゾットを彼のお皿に取る。 今日だけは沈黙が怖かった。 彼が「最後の言葉」を言い出すのが怖いから。 私は話し続ける。 彼に質問し続ける。 それにいつものように答えるあの人。 時間が私の心の中で壊れてゆく。 食事が終り、レストランを出る。 海からの冷たい風が、私の涙を乾かしてゆく。 「今日は改札まで送らないわ。そこの公園のところで見送る。」 海の波間に映る街の明り。 海から戻ってくる船。 彼の逞しい腕が、私を覆い尽くす。 抱きしめる彼の体。 汽笛が夜空に響く。 唇を離すと、彼が語りかけてきた。 「今日までありがとう。」 うなずく。 涙が意志とは関係なく流れ出す。 「退院したら、また逢いに来るよ。」 「私のこと、忘れたら承知しないからね。」 「もちろんさ。また、来るよ。メールも送る。」 「指を骨折しないでね。」 「そうだね。……今日は楽しかったよ。じゃ、またね。」 「うん。」 彼が私の体を離し、目を見つめる。 「愛しているよ。いつまでも。」 彼は、そう言うと笑顔で駅へ向かった。 私は彼の言葉を抱きしめながら、見送る。 私は彼の言葉を繰り返し、頭に思い浮かべながら、ここで彼が迎えに来る日を待つ。 携帯電話を持って。     (終了)  http://horai-novel.seesaa.net/